「大森さんへの手紙」





「さよなら」って、自分の思う通りに言えてないと、いつまでも心のこり。
「ありがとう」さえ言えてないことに気づいた。

1年前、あなたがもうこの世にいないって知ったとき、なぜかわからないけど
「ああ、やっぱり先に逝くんだ」と思った。誰より先に。

それはあなたが年上だからとか、甲斐バンドを辞めるって言ったのが最初だからとか、
そういうことではなく、あなたが弾くギターのように、みんなに余韻を残すんだなあと思っただけ
なんだけど。

甲斐バンドの曲がせつないのは、甲斐さんの書く曲がせつないだけじゃない。あなたのギター
がせつないから。
いつもせつなさの余韻を残してくれた。
そう、最後まで。

私はあなたのギターは「LADY」だと思ってる。
あの曲のギターソロがあなただと思ってる。
武道館にあの曲が入ってなかったのは、あなたがいないからだと思ってる。
せつないギターソロで余韻を残して終わるあの曲が、あなただと思ってる。
だから1年前、あなたが亡くなったと聴いた夜、私は「LADY」であなたを送りました。

今年、あなたを好きだったたくさんの人達が、いろんな曲といろんな言葉であなたを迎え、
また送り出そうとしています。
今度こそ、「さよなら」を言えるんだろうか。
今、これを書いている私にはまだわかりません。
もしかしたら言いたくないのかもしれません。
言わなくちゃいけないのかどうかもわかりません。

ただ、あなたのギターが好きでした。
あなたのギターの奏でる甲斐さんの曲が好きでした。
たくさんの思い出と、せつなさと、綺麗な音をもらいました。
だから「ありがとう」。
今年はこれだけに留めておきます。
また会いたいから。



大森さんへお会いして音楽、音の表現の素晴らしさをいつも甲斐バンドのライブで思
っていました。

83年のBIG GIGのナイトウェイブで間奏で音に酔いしれるように、
そして嬉しいそうに演奏されている、お姿が忘れられません。

音と演奏される姿で大森さんは表現者として、
大好きです。

甲斐さんのビデオで花園のインタビューで、
本当に温和な大森さんから「命がけ」と言われて。

本当に自分ではマネの出来ない決意と音楽へそして、
甲斐バンドのリードギターとしての心を感じ思いました。

バンドをに終止符をと決められた時は。

どんなに御辛いだろうと今の自分は想像では無く思えます。

自分も一番好きな事が体調悪化から出来なくなり。

しかし、大森さんは最後までファンの前で笑顔でした。

7月5日の一周忌には心より喪に服します。

大森さん心よりありがとうございました。

心より御冥福を御祈り申し上げます。



大森さんの1番のおもいでは、KIT16のライブです。

僕たち夫婦が、早めに会場に行きましたら、大森さん1人がタ
クシーで現れたのには驚きました。

アルバム『Let's Fly Out』にサインしていただけた時、とて
も嬉しかったです。
そのアルバムが、宝物になりました。



1979年9月NHKホールでの甲斐バンドのライヴ、
あの日、あの時、部屋の雨戸を閉めてラジオのボリューム上げて聴いたよ。
大森さん、かっこいいよ。
ギターの音、すごくシャープでかっこいいよ。
オープニングの『きんぽうげ』からかっこいいよ。
『シネマクラブ』での弾きまくり、かっこいいよ、しびれたよ。
大人になった今でも、ずっとずっと忘れないよ。
かっこいいよ。
大森さん、かっこいいよ。

大森さん、ありがとう。



大森さん、ありがとう。

はじめて甲斐バンドのライブに行ったのはもう28年前の
1977年12月4日中野サンプラザホール、15歳の冬でした。
周りを見ると女性だらけ、すごい歓声。
始まる前からいたいけな中学生は圧倒されていました。
そして・・・。
大森さんが奏でる『きんぽうげ』のイントロですべてがブッとびました。
これがライブなんだ、甲斐バンドなんだと。

それから24年。
2001年8月25日 富士急ハイランドで行われたSOUND CONIFER229 
家族4人で甲斐バンドを見る日がくるなんてと感激しつつ・・・
これが最後なんて思いもしなかった。

そして僕と大森さんの甲斐バンドストーリーは
『きんぽうげ』ではじまり『100万$ナイト』で幕を閉じたのでした。

大森さん、おやすみなさい。



甲斐バンドが好きだった。
甲斐バンドが好きな友達もたくさんできた。
その中の一人に「国分寺の大森信和」という友人がいた。
いた…。
そう、彼は、もうこの世にはいない。
大森さんが好きだった彼のギターは、もう聴けない。

彼が亡くなったことが大森さんに伝わった時、
大森さんは、彼のために祈ってくれた。
彼の名前は、大森さんのCDにクレジットされている。

あれからどれぐらい経ったのだろうか、
時々、気が向いた時に彼のお墓参りに行ったりして。
「25時の追跡」を聴くと、いつも彼を想い出す。

二人の偉大なるギターリストの早すぎる旅立ち。
いまごろ天国でセッションでもしているだろうか。
これからも忘れる事のない、彼らの記憶を大切に
伝えて行きたいと思う。

明日に向かって。。。


Love Always .




大森さんが昇って行った天国への階段を、私も何度も途中迄昇りかけました。
大森さんが甲斐バンドのメンバー、スタッフを始め、
暖かなご家族に囲まれた人生を送られた様に、私もかけがえのない
たくさんの友達や家族に支えられながら、難病と闘う日々を送っています。

大学2年になる息子が突然エレキギターを買いバンドを始めました。
甲斐バンドのビデオを観て、この人のギターの音が好きだと、
大森さんの事を生意気にほざいていました。

それから、私が高校時代に自作したコーラスとフェイザーに感動し、
甲斐バンド全曲集のバンド譜と一緒に持って帰りました。

「俺が音楽を始めたのを一番喜んでるのは、お父さんだろ?」と泣かせる言葉を置いて。
生き続ける事、それが今は使命だと思う様になれました。25時の追跡は続きます。


 
 大森スマイル。いつからでしょう、大森さん。あなたの笑顔が、そう呼ばれるようになったのは。

 僕は昔、あなたの写真を見て「こわそうな人」というイメージを持ちました。だって、ほら『この夜に
さよなら』のジャケット。あの目つきはこわいですよ。まあ、おそらくカメラマンの注文通りの表情だ
たのでしょうが。

 僕が体験した2度目のライブが、あのTHE BIG GIGでした。暑い暑い夏の夜のお祭りでしたよね。
 それから半年後、ライブビデオを買った僕は驚きました。あなたがギターを弾くときの表情が、
あまりにも楽しそうだったからです。ミュージシャンってのは幸せな職業なんだなぁ、などとお気楽な
ことまで考えちゃいました。

 甲斐バンドが解散を発表した時は、自分の一部がもぎ取られるような想いにとらわれました。
でも、その理由があなたの耳の不調だと聞いて、それなら仕方ない、と納得しました。大森さん
がいるから甲斐バンドなんだよなぁ。そんな風に改めて思ったものです。

 数年前、あなたはご自分のホームページを作り、その掲示板でファンからの質問に答えてくれ
るようになりましたよね。僕も調子に乗って、ついつい大森さんご自身とはあまり関係ないことに
ついて質問しました。その時、あなたはわざわざ関係者の方に事実確認して、僕に応えてくださ
いましたね。ありがとうございました。
 アルバム『PEACE & FREEDOM』が発売される時には、勝手に宣伝用バナーを作らせていた
だきました。出来が良いものではありませんでしたが、あなたは喜んでくれましたね。ありがとうご
ざいました。

 幸運なことに、あなたの最後のステージを僕は見ることができました。そう、2003年5月3日、
名古屋での田中一郎さんのライブです。あなたを待ち望んでいたファンが大勢いましたが、あな
たは甲斐バンドの頃と同じくボーカリストの引き立て役に徹していましたね。あなたに支えら
れて、一郎さん、そしてゲストの井口一彦さんは楽しそうに歌っていました。

 僕の周りには、大森さんを好きな仲間が大勢いるんですよ。みんなが集まった時によく出るの
が、大森スマイルという言葉です。大森さんって優しそうだよね。声をかけたら、いろいろ話して
くれたよ。ステージでもニコニコしてるよね。あの、大森スマイル、いいよねぇ。ちょっと天然っぽい
とこもあるよね。赤福が好きらしいよ。そんな風に大森さんのことをワイワイ話す時、僕らもまた
笑顔になります。あなたの存在が、みんなを結び付け、幸せな気分にさせてくれるのです。

 大森さんはきっと雲の上でギターを奏でているんでしょうね。よかったら、僕の大好きな
『JOUJOUKA』を聴かせてくださいよ。図々しいかな?じゃ、また!





他にも、たくさんお手紙=メールを頂戴いたしましたが、一部のみ掲載させていただきました。
また、事務局よりお伺いを申し上げ、

CRYさんの追悼文
B-SPOTさんの「大森さん。ありがとう。〜大森信和追悼ページ〜」(一部抜粋)

を会場にて朗読させていただきました。
ありがとうございました。